昭和50年01月17日 朝の御理解
御理解 白紙
白紙で聞いて頂たいです。どんなに難しい問題がありましても、一応白紙にすると。何もなかった事にする。そこから話が始まりますと、話がスムーズに参ります。白紙にすると言う事が大事です。御教えを頂くでもそうです。今まで少しばっかり持っておる知識と言った様な物が邪魔を致します。もう何にもない。言うなら虚心坦懐。そういう心の状態で御教を受けなければいけない。でないと不純な物になる。混ざってしまう。ね。私は教えを頂く姿勢だと思うですね。
今日私お夢の中に一生懸命でこの、ハイを叩いておる所をハイ叩きで。所がハイがどうしても死なんのです。それが何とハイ叩きが、何か軽いね力の無いハイ叩きなんです。それでハイをこうやって叩きよるけれども、ハイが一つも死なない。そんな今朝起きりがけでしたが、お夢とも御神願とも付きませんけれども、そんなお知らせを頂いた。どう言う事だろうかとこう思いました。
私は昨日でしたか一昨日でしたか。もし私に家蔵財産が、此処にあるとするなら、ね。それは私が神様の前に、言うならばどのような場合でも「はい」と言うて来た事だと。だから私にもし家蔵財産があるならば、その「はい」の中から生まれたんだという意味の事を頂いた。所謂信心には純粋なその、素直さというのが、所謂全ての事に「はい」と言えれる素直さが大事だという意味の事を聞いて頂ましたね。
けれどもこのハイを叩くというか、ハイを殺そうとすると言う事ですからね。此れは勿論、だからハイは不衛生的なものですから。まぁ「はい」と言わなければならないというても、何も全ての事に、はいはいと言うのはいけないと言う事であります。それが不衛生的な事。言うならば、おかげにならないような事に「はい」と言うてはならないと言う事です。そこの言うならばけじめと言うか、見極めと言う物がね、もうなんでもはいはいと言うときゃ良いと言うのではない。
此れは私の場合の「はい」は、そりゃなるほど昨日も聞いて頂いた様に、そのどの様な事の場合でも、「はい」と言う様な私は言うなら、風たらぬくさを持っておったけれども、事信心になって参りまして、神様の前にだけは「はい」と言うて来たと、それ以後と言う物は。ね。そう言う物を性根の中に持っておった。はぁこんな事では自分は、言うならば、成功は出来んぞ、も受けだしは出来んぞと思う位に、自分は風たらぬくい自分であると感じておった。ね。
それが一度今度はあの、神様と私との場合になって参りましたら、成程神様もそれは理不尽な事それは無理な事。そげな事しよったら本当笑われますよと言う様な事までありました。神様の言うならばお指図の中には。それでもだから神様の教えて下さる事には「はい」と言う事であってね。昨日こんな例がありました。ある教会の若先生が、熱心に此処に参って来ておりました。手続きが違うのです。ね。それでも矢張り私は有難いな、全教一家と言う事を言われるが。
何処の教会何処の関係と言わずに、只求める物がそこにあるとするなら、そこに矢張り地を低うして求めて来る、求道するという姿勢に、私は感心しておりました。所が最近、お参りがないから、どうした事だろうかと思うておりましたら、昨日そちらの信者さんがお参りして来ましてね。先日からお父さんがね。お前合楽に合楽にと参るけれども、家には家の信心があるじゃないかと。又は先代なら先代の素晴らしい信心があるじゃないかと。御道の信心はもう、その親孝行なんだ。
親孝行一つ覚えて行けば、徳が受けられると言われる位だから、何処どこ参りは止めてくれ、所謂合楽参りは止めてくれと言うけれども、言う事を聞かなかった。所がその方の、まぁ信用しておる叔父さんになる先生がおられる。その方がわざわざその、甥になるその先生にです。まぁ懇々とその道を間違えてはいけないと言う事を説かれた。それからその、お参りが出来なくなったという話を昨日聞きました。
成程親を大切にすると言う事は大切です。ならそれも本当です。けれどもね本当に、例えば、肉親の親があり、教えの親があり。特に御道の信心では、教えの親と言う事を、大変やかましく言い、又私共も教えられて参りました。ある教会の先生は、霊祭の時に先代の御霊様の前で祝詞をあげられると、必ず途中で、祝詞をおやめになる。感動してその先が出らない。自分の頂いたその師匠の教えを思い出される訳でしょう。それで祝詞が上がらないと言う位だ。
そう言う様な事が地方の青年教師の、非常な魅力だと言う話も、昨日聞きました。そしてそこの教会が、まぁゴヒレイをそれで頂いておれば、それでだからいいのです。如何に親を大事にする事、親を大事にする事と言うてです。ほんなら親の言うなら、言う事を聞かせて貰うて、親を大事にする。それでもおかげが受けられなかったり、人が助からなかったら、此れはちょっと、考えなければいけないのじゃないかと。私はその事を、昨日ある先生に話した事です。
成程ね親を大切にしなければならないのだけれども、親を大切にする前にもう一つ大事な事があるが、あんた解るかて私が。親を大切にする前に、ね。もう一つそれ前に大事にしなければならない事がある。どう言う事でしょうか。もう親を大切にする事が最高と、まぁ思うておる人には解らない。けれどもね。私は心を大切にすると言う事が信心なんだ。だから本気で例えば、○○教会の○○という若先生はです、ね。
合楽にもう愈々心を大切にする。おかげは和賀心にあると言われる、和らぎ喜ぶ心を頂く。もう此処で頂こうという決心してお参りをして来ておった。手続きも違えば言うならば、人から道を違えとると言う風に言われても、やっぱりやって来ておった。ね。どうでしょう本気で心を大切にしたらね。親は大切にしなければおられんのが道理であります。もう此れは親だけではない。全ての事を大切にするでしょう、ね。自分の心を大切にする。言うならば清める、改まる研くと言う事になりましょうか。
心を大切にすれば必ず、親は大切にしなければおられんのです。私はしなければおられんと言う信心でなからなければ、詰らんと思う。おかげば頂かんならんから、大切にすると言うのじゃ駄目です。信心でもそうです。おかげを頂くからお参りをすると言うよりもね。もう参らなければおられんと言うのでなからなきゃ、ほんなこつじゃないと思うた。そら信心なそれぞれの過程ですから、はぁおかげ頂きたいばっかりに参っとるといや、それ迄ですけれども。
昨日私はこんな話も聞いた。ある先生が御大祭を記念祭を仕えられる若い先生。お母さんはもう九十幾つで、介添えがいる位にそれでも、一番前に座って拝んでおられた。そしたら先生がそのお装束を着けて出て見えられた。そして此処から此処ならこうこ出て来る。お母さんが此処へ座ってあった。そしたらその足が悪いから、掛けておられたそうですけれども、よろよろしながらね、その先生の後ろの装束がちょっとこう曲がっておった。だからその、よろよろしながら、お装束をこう正されたという話である。
もう自分の老いの身も、言うならばよろよろしとる事も忘れて、御神前に向かっておる。所謂子供の装束がよがんでおったから、ちょいと正された。ね。そうしなければおられないのである。ね。親孝行でもです、親孝行せにゃおかげ頂かんからで、親孝行じゃいかん。親孝行はしなければおられんのである。だからしなければおられん心が生まれるのは、先ず心を大切にしなければ出来るこっじゃない。
成程その先生のお家では、ね。親孝行を大切にすれば、おかげになると言った様な考え方だから、信者も助からなければ、教会のゴヒレイも立たんのだなと、私は改めて思うた。だから例えて言うならば、そこのほんなら若先生が、親が言われようが、叔父さんが言われようがね。此れだけはね。此れだけはちょっと待って下さいと。親不孝の様ですけれども、一つ親不孝させて下さい。
その後に親孝行させて貰える道が、必ず開けて来ると言う確信を持って、例えば合楽に通うて来られるなら、此れはどう言う事であろうか。いわばハイを殺した事になるのじゃないでしょうか。はいをね「はい」と言わなければならない「はい」と言う事はね「はい」と言う事の素晴らしい事は、自分を虚しゅうすると言う事なんですよ。例えば皆さんがお伺いをなさる。私は赤が良いと思うけれども、親先生が白が良いと言われる。だから白にしようと腹を決めた時にはもう、既に自分と言う物は無いのです。
そう言う状態を白紙と言うのです。ね。私は今朝からお夢を頂いたのは、ね。ハイを殺そうとした。けれども打つのが弱いから、殺されんでおると言う所。ね。だからそう言うハイは、どうでも殺さなきゃいかん。所謂そのそれを殺せやなかった訳です。そう言う事だろうと思う。ね。おかげにならない事にです。言わば不衛生的な事に「はい」と言っておったんではいけないと言う事です。ね。どんな事にでも「はい」と言う素直さが必要なんだけれども。此れでおかげにならんと見極めたならです。
そこはね。桂先生の御教えにもあります様に、「親に孝行をして神に不孝をし、親に不孝をしておる氏子がある」と。「神に孝行をして親に不孝をし、そして後に親に孝行しておる氏子がある」と言う。それなんです例えばほんなら、私に両親がね。それこそ泣き縋る様にして、信心も程々にしてくれ、此れでは一家中がもう、路頭に迷うより他に仕様がないんだと。信心信心というて、言うなら人は信心上せの様に言われて、ね。だから信心を止めよとは言わんけれども、ね。
仕事は仕事、商売は商売させて貰うて、信心をさせて貰うたらどうかと言うて、それこそ辛抱強い父でしたけれども、それを申しました。そん時に私が父のいう事を「はい」と言うておったら、今日の合楽は開けてないです。ね。そこでそれこそもう、世界中で一番大切と言うならばね、もう両親が母と両方二人で申しますのに、もうあんた達が一番、私にとっては大切なんだ。
けれどもね今の私は、もう神様の仰せには背かれんのだから、ね。だから私は神様の言う事を聞かせてくれと、まぁいうてそれから御祈念をする。御祈念をすると御理解を頂く。御理解を頂くとそんなら、まぁひと辛抱と言った様な事で、合楽は開けておるんです。ね。だからそう言う事は「はい」と言うてはいけない事が解るでしょう。その○○と言う若先生は、はぁ残念な事だったなぁと、私は昨日思うんです。ね。
心を大切にする事をです一番にせずに、只昔からその系統の教会では、親を大切にする、親を大切にすると言う事だけが、ね。だから親を大切にしてそれは本当ですから、嘘では無いのですから、それでおかげを頂、助かればそれでいいのだと。けれども親を大切にしておっても、ほんなら朝の御祈念に、何名かしかお参りがない位な教会の勢い、ヒレイではです。此れは矢張りほんなら、その何代かを継がれる若先生が、此れではならじ、此れではいけんと思われたからこそ。
人が何と言うても合楽に通うて来ておった訳です。ね。合楽でほんなら心を正す事心を大切にする事を解らせて頂けばです。おかげを頂けば、親は大切にしなければおられんのだと。先日佐田のお婆ちゃんが頂かれたという、ね。あの三千三百万の徳を授けるか、ね。私が三十三に一つ零を入れると、三百三十だ。もう一つ入れると三千三百だと。結局信心とはゼロ、毎日をゼロ、ゼロにして行く事なんだ。自分を虚しゅうして行く事なんだ。所謂自分と言う物を何時も白紙の状態におく事なんだと。ね。
一つゼロにしただけで、ね。一つ十の位がこうやって、ね。一の位から十の位に十の位から百の位と言う様にです。そんなに自分を虚しゅうすると言う事は、素晴らしい事なんです。我情我欲を離れて真のお道を開きに、我が身は神徳の中に生かされてある。自分の我情、自分の思いと言う物を捨て切ると言う事。自分の我欲と言う物を捨て切ると言う事。ね。そこにはっきり解らせて頂くのが、成程我が身は神徳の中に生かされてあると言う事、実を実感する事が出来るのです。ね。
白紙になる訳ですから。我情我欲を離れて、真の御道を解らせて貰うと言う事が、信心なんです。だから我情我欲があって、真の道がそこにあっても、真の道と気付かんのです。解らんのです。ね。ご飯を頂きます時に、先ず飯台を綺麗に拭きましょう。どんなにお御馳走をこうやって持って来とっても、ね。飯台が汚れておったり、ホコリがしておったんでは、折角のお御馳走がね、ね。美味しい物でも、美味しくなくなって来ます。先ず飯台を綺麗に致します。そして色んな御馳走を並べるのです。ね。
私はね先ず飯台を綺麗にしなければならない。今日は皆さんにままになると言う事、ね。自分の思う様なおかげを頂くと言う事。それを例えばままになると言うのです。ね。言うならば食卓の前に座って、さぁ今からご飯にしようかという、ままになると言う事。それには先ず、ね。飯台を清潔に綺麗に拭かなければいけない。そしてそこに並べて頂く食物を頂いて、初めて気持ちの良いお食事が出来る。
一つその飯台にと言う事は、どう言う様な事だろうか。お互いがままになるおかげを頂きたいなぁ、ね。そう言う時に教祖は、こう言う風にも教えておられるのです。ね。「ままよと言う心になれよ」とままよとは死んでもままよの事ぞと、此れはもうギリギリ、おかげの頂ける、何と申しましょうか、まぁ大秘訣とでも申しましょうか、ね。まぁ成る事しか成らんのだからと言うとは違うです。ね。
言うならば神様の御教えも、本気で行じさせて貰う、ね。言うならば虚心坦懐、御教を頂かせて貰うて、色々と心を練らせて貰う。ね。そして虚心坦懐の心で、例えば願い事をする。お願いをさせて貰う。ね。一生懸命のお願いをさせて貰う。そしてその次の心の状態です、ね。そしてそこにままよと言う心を作る。ままよとは死んでもままよの事ぞと言う程しの、そう言う私は心が、今日は白紙だと言う風に聞いて頂きました。同時に、ね。私共は信心の一番求められるものは。
素直と言う事ですけれども。言うならば全ての事に「はい」と言う事なのですけれども、その「はい」もです。此れは不衛生的な「はい」であると解ったらす、ね。そこはもう決然としてです。それは乗り越えて行かなければいけません。もう全ての事にと言うけれども、ね。おかげが頂けれると確信を持たれる事の為。又はまぁ此処で言うならばです。ね。神様が教えて下さる事。親先生が言われる事。
此れには、誰が何と言うても「はい」で進むと言う生き方でなからなければならん。けれども私共は、今日その○○教会の、○○若先生の例を取りました様にね。ね。懇々と言い聞かせられたところがとうとう、それの方に「はい」と言うてしもうた。此れではやっぱり今真でと同んなじ事だろう。その教会の事はと思うのです。ね。成程親を大切にする事は、本当に大変な、もうそれこそもうそれで、もう親孝行が出来る人なら、絶対おかげを頂かれると言う程しの事ですけれども。
それは親孝行をしなければ、おかげが頂けんから親孝行をしておると言った様な親孝行はもう、親孝行じゃないです。条件がある。ね。そうしなければおられないと言う為には、矢張り心を先ずは大切にしなければいけません。ね。心を大切にすれば、ね。親孝行はしなければ居られなく成って来るのです。ね。今日は此れだけの沢山な御教えの中に、たまたま今日私は此の、白紙の所を此処の所を頂きましたから、今日は白紙の心の状態の、様々を聞いて頂ました。
どうぞ。